我が子をベビーカーに乗せて電車に乗るようになって間もなく、こんな経験を何度かした。
改札口へ上がるためエレベーター乗り場に向かったのだが、そこには長蛇の列。しかも中にはピンピンしている若者もいるではないか。
「階段なりエスカレーターなり使えばいいのに。本当に必要な人に譲るべきじゃないの?」
そう心の中で文句を言った。
エレベーター乗り場には、控えめながら「車イスやベビーカーのお客様を優先下さい」という張り紙もあるのだ。それを差し置いてわざわざエレベーターを選ぶなんて、本当に気が遣えない人がいたもんだ。
嘆かわしい、と私はため息をついてからふと思った。
そういえば自分が独身の頃はどうしていただろう?
自分はどうだったっけ
考えても思い出せない。そもそもベビーカーを押した人々を電車で見かけた記憶すら怪しい。
階段やエスカレーターを意識的に利用した覚えも無いから、おそらく普通にエレベーターも使っていたのだろう。
「たまたま目に入ったから」とか「エスカレーターより近かったから」といったささいな理由で利用していたのだと思う。むしろそれは理由と呼べる程のものでもなく、「エレベーターは誰でも普通に使うもの」という認識でしか無かったのだ。
これはほんの数年前の話だから、それから劇的にベビーカーを利用する方々が増えたとも考えにくい。
当時から大勢居たはずだ。居たはずなのに私は気づかなかったのだ。
何故だろう?
出産も子育ても経験の無かった当時の私には、彼らは別世界の人間達で、雑踏に紛れ込んだ景色の一部でしか無かった。車イス等優先するように促す張り紙があったことすら、全く記憶に無い。
目次
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気づかないんだよね
以前夫としょうもないケンカをしたことがある。
夫に何度か話しかけたがパソコンに集中していたらしく、返事すら無く全くの無反応であった。
話しかけた内容がすぐに解決出来るものではないという事が分かっていた為、私は彼が意図的に聞こえなかったフリをしたのだと癇癪を起こした。
しかし聞いてみれば彼は清廉潔白であり、単純に「集中していて聞こえなかっただけだ」と言う。
「何度も話しかけているのに、そこまで聞こえない人間なんていない。普通は気づくはずだ」と私。
なんと言おうと「気づかなかったのだからそれ以外に言いようがない。
集中して周りが聞こえなくなる人もいるのだから、癇癪を起こされても困る。」と夫。
確かにここでいう「普通は気づくだろ」はあくまで自分の基準だ。今までの自分の経験のなかで、割合として気づく人が多かったからそれが「普通」になった。
しかし他の人は違うかもしれない。各々の経験の仕方で何が「普通」の基準となるかは当然変わってくる。
つまり、とくに周りを気にせず気がつがず、エレベーターに乗り込んでいた当時の私はそれが「普通」だったのだ。
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気づいた人が優しくなればいい
自分の経験の積み重ねが、ふとした時に口に出る「普通」を生み出す。私はその「普通」はつまり世間一般の常識であると信じて疑なくなっていた。
今回のことで、自分の境遇によって「普通」が変化することがよく分かった。
子育てを経験していることによって、1人で外出した際は意識的にエレベーターを使わないようにし、小さな子どもを連れた人々により目を向けるようになった。
そして今後は、「ベビーカーは優先されるべきだ!」とケンカ越しに相手に目くじらをたてることも無くなるだろう。
気づいた人が気づいたことをやって、常におおらかな気持ちでいたいと改めて思う。
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