母親は育児を最優先すべきなのか?「良き母親」について思うこと

 
ご近所に白髪のきれいなおばあちゃんがいる。筆者はこの方が少々正直苦手だ。
 
我が子を連れて鉢合わせすると、
「もちろん母乳で育ててるのよね?」
「昔は布オムツで大変だったのよ」
「毎日散歩はさせてあげてね」
 
とまぁ、こんな具合なのでいつも「そうですね、頑張ります」と流している。
 
我が子が2月くらいまでは、自分の体調も戻っておらず寝不足と育児の疲労でボロボロ、正直毎日散歩なんて出来る状態ではなかった。
 
育児雑誌をめくれば、レストランのメニューに出てきそうな離乳食のレシピがずらりと並び、手作りのスタイや洋服の作り方、知育おもちゃや運動のススメ、あれしましょう、これしないとまずいですよ、といった内容の記事も多く見かける。
 

小さな赤ちゃんを抱えるママは、いち母親として社会から批判的な目で見られるのを恐れたことはないだろうか。
 
筆者の場合、このおばあちゃんの発言や育児雑誌の内容などから、育児に対し母親が期待されている見えないプレッシャーを感じることが時折あった。(今もある)
「周りに非難されないような、良き母でいるべき」という重圧だろうか。。
 
それにしても良き母ってなんだろう?
 
授乳時の激痛に耐え、とにかく母乳で育てたり、抱っこしすぎからくる腰痛も我慢し、寝不足の体にムチうって我が子のためと思い毎日散歩に出る。子供のためなら自己犠牲は厭わず、苦労は買ってでもするような人物を世の中は「良き母」と定義しているのだろうか。世の中というか、自分自身もそういうイメージを持っているかも。
 

目次

自分が無意識のうちに作り上げていた「良き母親」像にちょっと寒気がした。
 
そういえば周りのママたちを見ても、我が子の育児が最も優先であり、自分が体を壊しても「仕方ない」、「自分のしたいことは諦めるか後回し」と言う方が多い。
 
この自らを犠牲にして、育児の苦労に耐える母親が一般的とされる社会になったのは、世の刷り込みじゃないだろうか、とふと思う。
 
戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」では無いが、少なくとも日本は努力・根性を美徳とする文化が昔から存在する。耐えて我慢して、苦労すればいつか報われるってやつだ。
 
育児も同様で、社会的支援やサービスを受けず、慎ましく育児の苦労を背負う母親を美しいとする思想が根付いているような気がしてならない。
 
月齢の浅い子をもつ母親はつきっきりで子供の世話するのが当然で、少しでも子から離れて息抜きしようものなら「愛情の無い母親」と非難される。
子供を早いうちから保育園へ預けて仕事へ出ると、「赤ちゃんが可哀想…」
 
育児に行き詰まったママは社会的支援やサービスを使うことに罪悪感を感じ、周りからの非難に恐れる。
頼れる親族が近くにいないママは社会から孤立し、ますます育児に行き詰まってしまう。
 

筆者は我が子がいかに夜寝てくれるか本を読んでみたり、問題なく寝ているかカメラを通してチェックするし、外出する時は母乳だけでなくミルクもあげるし、必要な時はベビーシッターにもお願いをする。
自身を磨くためにも学校へ通い、仕事でキャリアも積みたいと思っている。
 
私のような母親を「手を抜いている」と否定的な目で見る人もいるかもしれない。
ただ、自己犠牲のもとの育児では、母子共倒れになってしまうのではないだろうか。
 
子供が健康で充実した日々を送れるかは、両親が心身共に健全でなければ成り立たない。
子供にとって何が幸せかはその子自身が決めることであり、世の一般常識に母親は惑わされてはならないと言いたい。
 
育児真っ最中のママたちへ。
出産してしばらくは、精神的にも肉体的にもつらい時期を経験するかもしれないが、その時はどうか苦労を背負わず、周りを気にせず、楽な方法を選択してほしい。
 
子供がすくすくと成長し、笑いかけてくれる限り何も間違っていないはず。