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前回100年前の出産方法とは?という記事で「とりあげ婆」という出産を手伝う近所のおばあさんについて触れた。
昔の出産に興味をもった筆者がさらに調査を進めたところ、どうやら「とりあげ爺」なるとりあげ婆の男性版が存在したことが分かったので、今回はそれを記事にしようと思う。
ヒゲジイの存在
時代は昭和初期、1930年から1950年頃のころ。
新潟県、土樽村(現在の湯沢町)に「とりあげ爺」と呼ばれる男性が住んでいたらしい。(別名「ヒゲジイ」とも言われていたらしいので、ここではヒゲジイと呼ぶ。)
イメージ図
性格
寡黙、口は堅い、気さく、お酒とタバコをたしなむ
職業
普段は新聞配達員。その傍ら中国はり・灸、整体・マッサージなど独自に習得。「ヒゲジイにかかれば治せないものはない」と村中で噂に。
土樽村の日常
村人A
ヒゲジイ、腕の筋肉を痛めたんだ。治してくれんか
ヒゲジイ
・・・ふんっ!
村人A
おお!?痛くなくなった!?さすがヒゲジイだ
村人B
ヒゲジイ、肩を脱臼したみたいなんだが・・・
ヒゲジイ
・・・ふんっ!
村人B
おおおお!なおった!謝金を受け取ってくれ
ヒゲジイ
いらん
おばあさん
フガフガフガ
ヒゲジイ
・・・ふんっ!
おばあさん
ああ!アゴが外れて喋れなかったんじゃ。ありがとう!
ヒゲジイ
(なんか触ってたら治った・・)
と、村人たちは「体の痛みはヒゲジイへ」を合い言葉に彼のもとへ通いつめた。
それにしてもヒゲジイ、万能すぎる。
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とりあげ爺としてのヒゲジイ
1930年頃、彼がまだ40歳になる前にはすでに村の取り上げ爺として活躍するように。
彼が出産に立ち会うようになった経緯は不明だが、同じくとりあげ婆として活躍していた母の存在が関係している可能性もあるとされている。
土樽村の日常
村人C
ヒゲジイ、夜分にすまない。娘が産気づいたんだ。ご苦労してくれんか。
ヒゲジイ
うむ(おもむろに分娩セットの入ったかばんを持ち、立ち上げる)
村人D
ヒゲジイ、新聞配達中にすまない。娘が破水したみたいなんだ。
ヒゲジイ
うむ(配達をやめ、家に向かう)
産婦さん
ヒゲジイ、乳が張ってかなわん。吸ってくれんか。
ヒゲジイ
うむ
産婦さん
ふぅ、楽になってきた。もう片方もまだ張ってるんだけど・・・
ヒゲジイ
(ちょっとつかれた)
ヒゲジイ
おい、健!(孫)おまえ、やれ
孫の健
あいよ
と、ヒゲジイは子を取り上げるだけでなく、産後のケアなど幅広く活躍していた模様。頼まれればいつでも村人を助け、謝金は一切受け取らなかったので、村人はかわりにタバコや酒、卵などをお礼に渡したという。
ヒゲジイ、かっこいい。
なお、昭和初期はまだ自宅出産が多く、100年前の出産方法とは?で触れたような産小屋での出産から、自宅の畳の部屋で行うスタイルが主流となってきたようだ。
また1950年(昭和25年)ごろには、この村でも「出産は資格を持った助産師がするべきだ」という意見が増えた。もともとボランティアで出産の補助をやっていたヒゲジイもそれに賛同し、69歳のころ取り上げ爺を引退した。
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おわりに
以前水木しげる氏の自叙伝を読んだ際、彼の母親が水木氏を出産するシーンが描かれていた。自宅の畳の部屋でとりあげ婆さんがつき、父親は産気づく妻に「じゃ、しっかりした子を産むんだぞ」等と言って部屋を去っていく。水木氏は1922年生まれなので、ヒゲジイがとりあげ爺として活躍しはじめた時期とそう変わらない。
水木氏は裕福な家庭で育ってはいるが、彼の父親のように「出産は女性の仕事。男性は関係ない」もしくは出血を伴う出産そのものを「穢れ」とする概念が当時はまだ残っていたと思われる。
そんな時代にも関わらず積極的に出産を手助けしようとした男性が存在したというのは、出産を経験した筆者としてもなんだか嬉しい。
この村の女性たちも、男性が子を取り上げたり、張った乳を治してもらうのに抵抗はなかったという。何故ならそれが彼らにとって単に最善な方法とされていたし、ヒゲジイもそれを受け入れるだけの度量があったのではないだろうか。
いつの時代も言えることかもしれないが、世の俗説や固定概念を覆す大胆さと勇気、そしてそれを受け入れられる環境が整えばヒゲジイのような人間がもっと増えるのではないか、なんて思う。
(筆者も見習いたい)。
※この記事内に登場する人物の言動や性格は以下の文献を参考にしておりますが、アレンジしている部分があります。
参考文献:出産−産育習俗の歴史と伝承「男性産婆」
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